「文政十三年七月二日、つまり今より約一七〇年前、今の暦なら八月一九日という夏の盛りの午後四時頃、京都を中心として地震が起こった。宇佐美龍夫によるところの規模は(マグニチュード)六・四であった。然しかなりの被害があった。いわゆる直下型地震であった。」
これは三木晴男京都大学地震予知観測地域センター長著「京都大地震」の序文の一部である。
平成七年一月一七日、兵庫県南部地震が発生して九年が経過した。当時、神戸市周辺の川西市・伊丹市の被災度判定調査をボランティアで組織的活動をしたことが強く思い出される。また、地震に関する専門書も多く精読した。
その結果判ったことは、京都大地震(マグニチュード七以上)が平安京以降四百年ごとに発生していることと、発生年が殆ど和暦元年であることであった。
四百年ごとの大地震とは、文治元年(一一八五)と慶長元年(一五九六)で、現在は四百年を超えている。畿内(京都付近)にいつ大地震が起こってもおかしくない。東京大学名誉教授宇佐美龍夫氏は、「(大地震は)あした起きてもおかしくないし、数十年起きなくてもおかしくない」との名言を吐き、「もっとも、困る点がないわけでもない。人々は前半を忘れて、自分に都合のよい後半だけを記憶にとどめるクセがあるからである」と言い結んでいる。
次に京都大地震の発生年が殆ど和暦元年に当ることで、当初は大変奇妙に思ったが、歴史年表(下表)を調べてみると理由は単純なことであった。最初に紹介した文政十三年の地震を例にとると、地震発生後、年内に改元されて天保元年に改められているからである。
一見して和暦元年が大地震の当たり年のように思われるが、実際は都及びその周辺で大きな厄災が発生すると、朝廷は穢(けがれ)を嫌がって直ぐ元号を変えてしまうためである。詳しく調べてみると面白いことに、西暦一三〇〇年ころまでは大地震発生直後一ヵ月ほど後に改元しているが、その後改元の時期が遅れ出し、京都大地震として最も新しい一八三〇年のときの改元は地震発生の七月二日の後、五ヵ月おくれた年末の一二月一〇日であって改元の目的が果たされていないに等しい。
しかし、京都を震源地とした文治元年七月九日は、元暦二年七月九日が、慶長大地震といわれ、伏見城が大破した慶長元年七月十二日は、文禄五年七月十二日が、江戸時代に起きた京都大地震の天保元年七月二日は、文政十三年七月二日とするのが正しいが、いまさら、文治、慶長の元号を変えたら一般人には却って理解し難いだろう。明治以降は一世一元制になったから、このような中途改元による混乱は無くなった。
むしろ気になるのは「畿内大地震四百年説」ともいえる方である。文治元年(一一八五)の京都大地震はマグニチュード七・四でそのエネルギーの大きさは兵庫県南部地震の二倍に当る巨大地震であった。京洛の家屋は殆んど大破壊したに違いない。この年の三月、平家軍壇ノ浦で源氏軍に全滅させられてその後、鎌倉幕府が開かれ政治の中心が東へ移る。文明の転換期といえよう。
慶長元年(一五九六)の大地震の二年後、秀吉没す。さらに二年後の慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後、江戸幕府が開かれた。第二期文明転換期といえよう。この文明転換期説の解説は別の機会に譲る。
西暦 |
和暦 |
改元 |
震源地 |
M |
||
前元号 |
年月日 |
マグニチュード |
||||
938 |
天慶 |
1.4.15 |
承平 |
8.5.22 |
山城井手 |
|
1185 |
文治 |
1.7.9 |
元暦 |
2.8.14 |
東山五条 |
7.4 |
1317 |
文保 |
1.1.15 |
正和 |
2.2.3 |
洛北八瀬 |
|
1449 |
宝徳 |
1.4.12 |
文安 |
6.7.28 |
亀岡 |
|
1596 |
慶長 |
1.7.12 |
文禄 |
5.10.27 |
東大阪市 |
7.5 |
1830 (参考) |
天保 |
1.7.2 |
文政 |
13.12.10 |
愛宕山西北 |
6.5 |
1923 |
大正 |
12.9.1 |
(関東大地震) |
相模湾 |
7.9 |
|
1925 |
大正 |
14.5.23 |
(北但馬地震) |
城崎海岸 |
6.8 |
|
1927 (参考) |
昭和 |
2.3.7 |
(奥丹後地震) |
若狭湾 |
7.3 |
|
1995 |
平成 |
7.1.17 |
(兵庫県南部地震) |
淡路島北端 |
7.2 |
畿内(京都付近)の主な地震(平安京〜昭和期)